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ルイ・アラゴンの言葉に寄せて ~言葉と詩の花束No.7~

教えるとは、未来を共に語ること

学ぶとは、真実(まこと)を胸に刻むこと

フランスの詩人 ルイ・アラゴン -ストラスブール大学のうた-


僕も学生時代に、ことあるごとに使っていた言葉です。
「理工系の学生が何故?」と不思議に思われるかもしれませんが、実は、僕は教育系の問題や
活動にも携っていたからです。

さて、多くは「まこと」は「誠実」と訳されていますが、僕には「真実」との解釈が合理的です。
何故なら、「誠実」に頼っているだけでは埒が明かないとの思いが染み付いているからです。

「真実」に基づいて行動し、論理的に物事を処理することに対しての保証がないことには、「誠実」は非常に不安定な存在だからです。

ところで、昨今、コーチングという言葉が流行っていますけれども、単に、「技術」・「テクニカル」と勘違いしては、子どもに届く言葉は話せません。

そして、自らは人として伸びる姿勢を放棄した大人の一方的信念では、その言葉は、決して受け入れられるものではないと思いますね。

「ブレる大人=信用できない大人」
それは、子どもの目だけに映るものではないのだと思うのです。


もしも、テクニックではなく、心から真に子どもと向き合うことの必要性を感じておられるようでしたら、まずご自身が、左に挙げました吉野源三郎氏の「君たちはどう生きるか」を読まれ、もしお子さんが中高生なら、子どもさんが読まれるように仕向けられることをおすすめします。

実は、我が家では、10年ほど前、子どもが中学生になった後に、家内がそれとなく子どもたちにあてがっていた書物です。

もちろん、そのときに僕も読み、「こいつは、なかなか良い書物を与えよるわいな!」と感心したものです。

「僕が若い頃に、こんな本はあったのだろうか?」
「何故読まなかったのだろうか?」

と思うことしきり。

大変古い戦前の著作でありながら、自分が知らなかったことを恥じ入りましたが、どうやら、1982年に復刻初版のようですから、僕の中高時代にはなかったのかもしれません。

仕方がないのかと思いながらも、丸山真男氏は読んでいたのに、吉野源三郎の名前さえ知らなかったことが悔しい。

古い著作でありながら、現代ほど、いや、これからますます、吉野源三郎こそが多く現れないと人間が危ないと思えるのです。

それほど、この書は名著中の名著だと確言できます。
コペル君という中学生とそのおじさんの書簡形式が挿入され、日常の出来事からコペル君が考えたことや悩んだこととして書かれていますので、実に平易に読めます。

なのに、堅い言葉を散りばめたどんな示唆深い著作よりも深い味わいと深い本質があります。

僕は、特にある部分が現代社会の病巣の本質を突いていることで感心をしたことは別ページに書きたいと思っているのですが、社会を形成する一人の人間であるために絶対に認識しておかなければならないことが実に説教臭くなく説かれているのです。

この書籍と接するか接さないかで、人の格が決まると言っても過言ではないと僕は思います。

そして、まさに、ルイ・アラゴンの言葉を生き生きと息づかせる書籍だと感じます。

教えるとは、未来を共に語ること

学ぶとは、真実(まこと)を胸に刻むこと


2000.12.09著

つい1昨日、我が中二の娘が自分で眉を剃っていた。
髪の毛も流行のカットやら風に梳いていた。
睫毛も学校でカールさせていた。

妻がカンカンになって怒った。
「高校なんぞ行かなくてもよろしい。大好きなバレエもやめてもらいます。」
一昨日は私も深夜の帰宅となった為、昨夜に、しょげ返って泣きじゃくる娘と1対1で話し合った。

よそが許していることでも、我が家では許さない。
これが、我が家の方針です。

じっくりと話を聞くとほとんどの子が眉を剃っているらしい。
その上から描くことはさすがに無いのだそうだけれども・・。

今の貴方たちにとって、”時間”が今一番大切なはずです。
勉強だけではなく、自分自身を育てるための時間が与えられています。
そのために時間を有効に使うことは、権利を与えられた人間の義務として当然のことなのですよ。

浅はかで薄っぺらい”もの”や”格好”にうつつを抜かして、それで貴方が本当に心から”生まれてよかった”と思う時が来ると信じることができますか。
与えられた責任をそれで果たせますか。

そんなことにしか時間を使う方法を知らない周りの友達も本当に可哀想に思います。

他の家庭では怒られないのかもしれません。
しかし、貧乏ですが我が家は”人”としての”品格”を最も重んじています。
それが我が家の教育方針です。

快楽は本当の歓びには決してなりません。その瞬間だけのものです。
しかし、貴方が苦しい思いで身に付けたことによる歓びは消えることはありません。
貴方の血となり貴方の財産となるのです。

一歩の小さな後退は必ず例外なく百歩の後退に繋がります。
牛歩の歩みでもかけがえの無い財産を築いて行く人と、一歩の後退で財産どころか百歩の後退をする人の差を想像してごらんなさい。

そして、このような時代でも必ず貴方の周りには確実に自分を育て上げている人がいるのですよ。

従って、
貴方の大切な未来の為に、ふしだらさの第一歩を認めることは我が家では許すことは出来ません。

ほとんどの子が持ってるゲームやらおもちゃやら、オシャレな小道具やらも全然欲しがらなかった子どもたち。

テレビも親の許可しているものしか見せなかったので、子供同士の付き合いの面では、内心非常に心配していましたから、今回の出来事で親としては、逆にホッとした面がありました。

でも、本当は子どもとしての「うそ」はたくさんありましたよね。
ばれなかった以外にも・・。
お母さんは気づかなかったかもしれませんが、お父さんはある程度は気が付いていましたよ。

自分の後ろめたさに耐えることがとても辛いことだと分かったとき、君たちは自然にそのことと無縁になっていくと信じていたから、ただ知らぬ顔で見つめていたことも沢山あります。


2006年付記

娘には、大学に入って初めて携帯電話を与えた。
まだ高校生である息子には当然与えていない。
持っていない子などは皆無らしいが・・・。

ゲーム・携帯を与えなかった娘も、その当時ですら不自由そうにすることもなく、今でも友達やバイト先に奪い合いをされるような毎日を送っている。

携帯を持った今は、止むことがないように思える携帯メールもほとんどがReするのみで自分から発信する必要性も暇もないようである。

「携帯を持っていないと友達も出来ない」などということは全くない。
そんなことで仲間外れにするような友達なら、最初から友達と思う必要もない。
毅然としていれば、自然に友達は集まるのです。

この子たちは、自らが親になっても、子どもに、やみくもには携帯を与えることはしないだろう。

何かを与えるには、相応しい旬の時期がある。
何かを与えるには、そのための土台が要る。


2011年付記

娘の社交ぶりは、僕から見れば、今や驚くべきレベルです。
その娘が、あるとき、高校まで携帯を持たして貰えなかったことを良かったと言いました。
「あの時、もし携帯を許可されていたら、おそらく今の自分はなかったと思うよ。
きっと、携帯に溺れて無駄な時間を使いっぱなしだっただろうね。」

僕は決して僕たち夫婦が毅然としていただけの理由ではないことも知っています。
そこには、携帯を持ってはいても、決して携帯に依存しない友達たちが確実に居てくれたことがあって、初めて成立し得たということを・・・。

彼女は、修士号を取り、一応社会に出ました。
確かに、僕とよく似て、覚えることが嫌いで、考えることに長けていますが、それでも僕は、こんな程度で修士を与えてもらえる日本の文系教育レベルも少し疑問には感じるのです。

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