福島原発 耐震設計・安全率・責任・損害保障

「介護のこと」コーナーの四七日のページに「もんじゅとふげんと強いもの勝ちとリバタリアン」で書いたことの繰り返しになるのですが、原発問題は、結局は、リバタリアニズムの立場かリベラリズムの立場かあるいはコミュニタリアニズムの立場かというところで見解が分かれていることであり、それ以上でもそれ以下でもないように感じています。

沸騰水型が良いだの加圧水型が良いだのプルサーマルは危ないだの、そんな問題以前のこととして、公共的に大きく広いリスクのある事業を、生存権・生活権と引き換えに執行してもよいのかどうかという問題が本質だと思うのです。

そんな中で、前述のページでも挙げたのですが、リバタリアンの代表とも言える池田信夫氏は2011年05月08日の段階で、下記のようなブログを発信しておられました。

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東日本大震災は世界史上にもまれな大地震だったが、福島第一原発の最大加速度は448ガルと新耐震基準の想定内だった。

1号機は1967年に建設されて老朽化した原子炉だったが緊急停止し、配管の破断も起こらなかった。だから前にも書いたように、今度の事故で日本の原子炉本体の耐震性はむしろ証明されたのだ。

・・・

そういう法的な手続きなしに個人的な「要請」で原発を止める前例をつくると、日本の電力会社は深刻な経営リスクに直面する。
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実は、4月1日の段階で、東電は福島第1原発・第2原発の最大加速度を発表しており、第1原発では、3基で500ガルを超えていたことが発表されているんですね。

ところが、1ヶ月以上経っているにもかかわらず、わざわざ3月19日の古い新聞記事を引用して、こう言っておられるんです。

まさに、リバタリアンらしく、如何に福島原発の問題を思い遣っていないか、ましてや周辺住民のことを思い遣っていないかが、最新情報も調べずに書いておられることからだけでも見て取れるのではないでしょうか?

常識的に考えれば新聞発表の「想定最大加速度」というのは、安全率を掛ける前の耐震設計上で
想定する最大加速度だと思うのですが、それに対して、材料の強度(許容応力)で安全率をいくら
以上取っているかによりますね。

例えば2号機で438ガルの想定に対し、実際は550ガルが観測されたとあります。
即ち、想定の1.25倍の力が作用したということです。
ここで、強度の安全率を例えば3以上取っていたとすると、実質上2.38倍以上の静的な強度余裕はあったということになります。

最低安全率の3が大きくロスしてしまいますが、単純計算上は2倍以上の余裕があります。
もちろん、余裕度が2倍以上あったとしても、破壊しないという保障はないわけですけれども、
津波が来る前に破壊されていたかどうかは微妙なラインのように思えます。(特に配管系統)

さて、地震の振動数は非常に小さいですから、建屋や構造物の固有振動数と極めて近かったことは大いに考えられ、もし、津波が来る前に破損していたのであれば、共振現象を起こして作用力が大きく増幅された可能性が考えられます。

僕も、最初の会社で、ある設備の縦振動の原因究明と共振現象を回避する対策に従事させてもらいましたから、共振のすごさは分かっているつもりです。

当然、耐震設計も断層やら地質まで考慮しスペクトル分析までされてのものでしょうから、その結果として、逆にこんな低いレベルの想定加速度が出るのかもしれませんが、それでよいのかという疑問は大いに残ります。

もし、指針通りでその値が出るのであれば、強度の安全率をもっと大きく取るべきでしょう。
そうでなくとも不確定要素の多い自然現象の地震には、あまりにも脆弱で貧相な数値に思えます。
(最大加速度の測定点情報が錯綜しており、理解に苦しむ点もありますが・・・。)

とにかく、阪神淡路大震災では、最大加速度では約800ガル程度記録していたはずですね。
阪神淡路には原発はありませんから、測定地点の相違により単純に当てはめるわけにはいかないでしょうが、換算計算をしていく参考値にはなるでしょう。

それで、2007年の中越沖地震の柏崎刈羽原発では、例えば1号機2階では設計時の加速度応答値が東西・南北のそれぞれの方向で約460ガルが取られているのに対し、実際には東西方向で約890ガルが観測されています。

今回の福島原発を同じレベルのデータで見ると、想定最大加速度は似たり寄ったりで、むしろ観測データは柏崎刈羽原発より低いんですね。
ですから、津波前にメルトダウンしていたのなら、共振現象が起こってしまった可能性は強いのではないかなと思ったりします。

いずれにしても、阪神淡路大震災・新耐震指針を経て、2007年の中越沖地震を教訓としたにもかかわらず、この程度の耐震設計だったということが、少しビックリしますよね。

何だか、経済性を大きく優先させたいがために「この程度でいけるだろうし、いてまえ!」という、
原発保護を大前提とした安易な決定が見え隠れしますね。

あれから16年、ここまでは何事もなく過ぎてきてほくそえんでいただろう中での今回の大震災。
もともとの指針自体が、どう考えても、「ナメてるんじゃねぇ?」と思わない人が居るのでしょうか?

それを、「日本の原子炉本体の耐震性はむしろ証明されたのだ。」と解釈する楽観性は、
どこから出てくるのでしょうか?
安全率もフェールセーフも使ったことがないだろう人が、堂々と公に判断してもよいのでしょうか?

いずれにしても、こんな心許ない数字で設計が行われているとすれば驚くべきことです。
当の実務レベルトップの技術者なら、本当は憂慮していた人も多かったのではないかと思います。

しかし、「国家政策→企業成長戦略→企業のトップダウン体質」の中では、為す術もない。
経済のために変質させられる技術の憐れな姿が浮かんできます。

ちなみに、人の生死に関連する事態に繋がるエレベータの命の綱、ロープの安全率は
10以上なんですね。

これから見れば、動的である地震荷重に対しては、実にみすぼらしい数値に思えるのですが、そもそも安全率とは想定される負荷に対しての余裕度ですから、想定される負荷自体を低く見てしまうようなカラクリで誤魔化されると、安全率の意味なんか吹っ飛んでしまいます。

まぁ、充分、安心できる安全率を取ったら、想定の負荷を低く見積もることでしか原発の経済性は
成り立たないということなんでしょう。

僕には、地震が起こって重大な問題が起こる度に、想定負荷はチビチビと増やしていけばよいと
いう魂胆が介入して調整された数値のように見えて仕方がありません。

結局は、住民への危険性を慮るよりも経済を優先する方が重要課題だという姿勢、「そんな巨大地震なんか俺たちに責任がある時代には起こらねぇ」という身勝手な希望的予測以外の何が浮かび上がってくると言うのでしょうか?

ましてや、対津波の強度に対してなどは、たとえ簡易的な設計指針であったとしても、どれほどの
安全率が施されていたことかと想像するだけでも切なくなってしまいます。

おそらく、想定できる津波に安全率を考慮すれば、設計自体が不可能か、出来上がった構想図を見て、「これほどの強度は必要なし」あるいは「どんだけ予算を食うねん」と冷たく突っぱねられるような代物でしょうね。

実際の設計者に日本人が携わっていたとすれば、それでもつじつまを合わせなくてはならないジレンマにさぞかし良心が痛んだことだと思います。
僕なら、リー即で辞表出しますけれどね・・。

さて、損害賠償と責任問題については、政府支援の枠組の中で東京電力が損害賠償をしていくことに決まりましたね。
「国民負担の極小化」ということが前提として謳われていますが、実質上、電力料金の値上げは行われ、何%の値上げかが焦点になるだけでしょう。
原子力損害賠償法には、災害だから国民皆で責任を負うようにとは書いていないんですが・・・。

結局、借金まみれの国が東京電力へ貸付けるということで、かなりの部分の損害賠償金が充てられるのですね。
電力は殿様商売ですから、回収には問題がないかもしれませんが、相当時間がかかるでしょう。
そして、結局は国民に回ってくることは充分予想されますね。

資本主義の原則から言えば、東京電力が全責任を負うというものですが、もともと原子力事業は僕が生まれる前後から、政府によって進められてきた国策であるという点からしても、本来の責任は政府そのものであるべきではないかと思うわけです。

それに乗ったとは言え、電力会社は国策の実行部隊の一つに過ぎません。
その意味で、本来は政府こそが最も深い責任を負わねばならないものだと思いますね。

また、東電は全責任を負うのに、その株主や社債権者などの責任は事実上免責されるそうです。
経済ど素人の僕でも首を傾げるようなことが、やっぱりまかり通るのですね。
そんなことをすれば、個人投資家の警戒感が強まり投資意欲が減退するからでしょうか?

阪神大震災後に耐震指針を策定した行政、利権に預かる預からないにかかわらず原発を推進してきた政治家・官僚・メーカー、推進論の支柱となった専門家や学者や評論家の責任は曖昧なままで終わるのでしょうか?

自民党はじめとする全ての推進派議員や利権に群がった全ての人々は、原発政策開始当初にまで遡って、給与カットや給与変換という形で責任を取るべきではないかと思いますね。
過失をしてもいつでも何の責任も取らなくていい特権階層に「市場原理」とかいう言葉を使う資格があるでしょうか?

また、メーカだって、東京電力だって、必ず、内部では、「こんな設計指針では危ない」という声が
あったはずです。
それを、トップダウンの慣習だけで根拠なく黙殺し、経営トップに進言しなかった管理職には責任
はないのでしょうか?

この春の統一地方選挙では、市会議員レベルでも、いつから皆さん「原発見直し」と叫ぶようになったのでしょうか?
いかにも、「最初から私は原発には疑問を抱いていたんだ」かのように情宣する声が耳障りでした。
本当に信用ならないのは、この手合いの日和見お調子者人間たちです。

-2011年5月26日-


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